Toyroメンバーのリレー・コラムです。ぜひ、お楽しみください!(代表・横川理彦)
最近、テレビで「ポール・モーリア公演」の宣伝をよく見かけるので、思い出したことがああります。
小さい頃、母が美容院に頻繁に通うのに、自分が切らない日も、いつも連れられていた記憶があります。当時連載中だった漫画「ベルサイユのばら」を、そこでよく読んでいました。私は全く洒落っけのない子供だったので、髪型について何も希望はなく、母の言うなりで、ある時、当時流行っていたポール・モーリアの写真を母が持参し、小さい私は反対する間も無く、その髪型にされてしまいました。はっきり覚えていませんが、家にあったレコードジャケットか?週刊誌の記事か何かを母が持参したんだと思います。
実家にあったポールモーリアのジャケット
私は、髪が硬くて多く、富士額で、前髪を短く切るとツンツンに立ち上がってしまうタイプで、ポール・モーリアと同じ髪型にした結果、前髪が全部立ち上がってしまいました。自分の見た目に殆ど興味がなかった私といえども、髪を切った翌日、ひどく恥ずかしくて、制服のベレー帽を授業中も被り続けました。
小学生というもの、人と違う行為にうるさいもので、男子達に「先生!荒木さんが帽子を被ったままです。」と騒がれ、きつく帽子を押さえたまま泣いていると、先生が帽子を優しく脱がせて「かわいいじゃない!先生はその髪型好きよ」と慰めてくれた記憶があります。
(写真は、美容院から日数が経って、前髪もだいぶ馴染んでいる。)
そもそも、私は、今でいうところのネグレクトに近い状態だったと思われ、小学3年ぐらいまで、遅刻を繰り返し、ランドセルの中は教科書はおろか、筆箱も入っていないぐらい空っぽで、よく廊下に立たされていました。担任の先生にしても、小学低学年で親のフォローが一切ない生徒に対し、ネグレクトを感じ取っていたと思われ、廊下に立たされた私を見る目には、怒りより憐れみがありました。そんな先生の心を全く知らない母は、ポール・モーリアの髪型を嫌がって泣いた私に全くお構いなく、次は、校則で禁じられていたパーマをかけてしまいました。目立ちたくない私は「校則違反だからイヤ」と断りましたが、母と美容師さんが「平気平気」と押し切ってしまいました。ポール・モーリア直後だったか?年月が開いたかは覚えていません。
再度、学校でベレー帽を脱がない私に、今度は男子だけでなく女子も大騒ぎでした。「あらちゃん、校則違反だよ!パーマかけてる。いけないんだ!」と。当時の私は目立ちたがり屋でも何でもなく、むしろ、性格キツめの友達に強い口調で言われると泣いてしまう事もあったぐらいなので、ベレー帽を押さえたまま大泣き。担任の先生は、今度は流石に私を庇うことができず、悲しい顔で、静かに騒ぎが収まるのを見ているだけでした。あの時の先生の目が忘れられません。母が申し訳ありませんでした。西村(広川)先生。
(夏休みにはパーマもだいぶ落ちて、円谷のサマーキャンプに意気揚々と参加)
その後、小学4年生ぐらいで、私は、ネグレクト状態から脱したのか?単に、成長して世渡りを覚えたのか?普通の髪型で、遅刻も減り、悪目立ちしない子供に変化した気がします。その年齢ぐらいで昭和歌謡に夢中になったことも大きいと思います。いつも一人でレコードを聴いていました。母もテニスか何かを始めたのか?私の髪型で暇つぶしをすることがなくなったのだと思います。
イージー・リスニングがどうしてそんなに流行したのか?ポール・モーリアは何をする人か?ポール・モーリアがどうしてそんなに流行ったのか?詳しい人が沢山いるので、私はここで掘り下げませんが、ホントに流行りました。父が買った何枚ものアルバムやカセットを私も何度も何度もしつこく聴いていました。
誰でも知っているあえてベタな選曲です。今改めて聴くと、楽器の役割が一つ一つ粒だって鮮やか、シンプルなメロディと軽快なテンポで本当にワクワクします。私の中での昭和アイドル歌謡前夜の流行音楽だったのもおかしくないと思います。
自分の髪型のバリエーションを探していたら、楽しきバンド旅行中の写真が出てきたので、1番オフ感の少ない雰囲気、且つ、私の写真ばかりで退屈した人に喜んでいただけそうな写真を最後にアップしておきますね。
西岡チョコレートのバンド旅行中(ライヴツアーではなく)、菊地成孔さんと。伊豆にて。