Toyroメンバーのリレー・コラムです。ぜひ、お楽しみください!(代表・横川理彦)
聖徳太子の絵を眺めていて、ふと思った。この頃の日本は、今よりも暑かったんじゃないかと。皆、薄着で袖もダボっとしている。それに比べて、十二単を纏っていた平安時代は、きっと寒かったのだろう。冷害に苦しんだこともあったのではないだろうか。実際、鎌倉時代には飢饉の記録も残っている。
今日はダラダラとした文章を書いてみようと思い立ち、こんなことを書いている。10年間のサラリーマン生活で、すっかり長文が書けなくなった。「日報は要点のみ、報告は短く」と言われ続けてきたからだ。(その割に、飲み会は長かった。)
いつも急かされていた。その分、上司の目が届かないところでは、こっそりサボった。そもそもみんなで、何をそんなに急いでいたんだろう。上から急かされていた人は下を急かし、その人はさらにその下を急かした。
生き急ぐという言葉がある。一生って短いんだろうか。特に年末には「1年があっという間ですね」と言われるが、正直、あっという間だと感じたことはない。1日だって、あっという間とは思わない。体感としては、だいたい1日分の長さだ。ああ、意味のないことを書いてしまった。同義反復。
ある程度の年数を生きていると、驚くことが増える。先日、取引先に誘われてお茶をした。いつ仕事の話になるのだろうと思っていると、谷口さんに話すとすっきりするなあと言って、世間話だけで帰っていった。まあ楽しかったから良いのだけど、少しびっくりした。この間、連れて行かれたバーでは、高級スコッチが1杯1万円を超えていた。ボトル1本じゃないのかと驚いた。気づけば欲しかったマイクは倍額になっているし、pHの読み方はペーハーではなくピーエイチになっている。百人一首は、実は藤原定家が編纂したわけではないらしいというのが今や定説になっている、というのも驚きだった。学校で習ったことって何だったんだろう。
ある程度の年数を生きていると、昔のことが気になる。平安時代や江戸時代は、日本独自の文化が育った平和な時代だったという。外国が欲しがる資源が日本に無かったからだ、という説を聞いたことがある。だから放っておかれたのだと。今の日本も、世界から放っておかれているのだろうか。そのおかげで独自の文化が育ち、平和な時期を迎えているのかもしれない。だとしたら、いつか終わりが来るのだろうか。
ある程度の年数を生きていると、「永遠に続くものなんてない」という実感が湧いてくる。中学で友達が1週間口をきいてくれなかった時間はこれがずっと続くのかと途方に暮れたが、長くても3年間のことなのだから気にする必要はなかった。渋谷系の音楽が流行っている時は、永遠に世の中が渋谷系に覆われる気がしていた。気づけば某アイドル事務所は消えてしまっているし、和歌山県のみかんの収穫量が愛媛県を上回っていたり。いつの間にか色んなものが変わっている。
永遠に続くものなんてない。何かが近々起きても、不思議ではない。実際、この数年は予想外のことばかり起こった。5年ほど前、ロサンゼルスで1ヶ月ブラブラしていた。ここで暮らしたらどんな感じだろうと考えながら。今思えば、そんな生活を選ばなくて良かった。いろいろと間違えたこともあったが、重要なところでは間違わなかったように思う。多元宇宙論によれば、間違った自分はパラレルワールドで生活していることになるんだろうか。でも、実感したことは当然ない。今いるこの世界が、たまたま自分に都合よくできているような気がする。そんな楽天的な気持ちで、のんびり暮らしていたい。
なんだかダラダラとした文章が書けた。
作家の柴崎友香さんによれば、大阪弁は「会話を続けるための言語」だそうだ。大阪の人たちは、意味の伝達よりも会話を続けること自体に意味があるらしい。「なんでやねん」は理由を問いただすものではなく、「次はあんたの番な」という単なる会話のキャッチボールだそうだ。文章だって同じで、関西弁で書いていたら、もっとダラダラと書けたかもしれない。
日本には東西の境目にフォッサマグナという地帯がある。それを超えると自分が変わる。フォッサマグナを跨ぐことは、自分の人格を選ぶことなのかもしれない。日本の子供たちにはもっとフォッサマグナについて教えるべきだと思う。少なくとも藤原定家よりは。