Toyroメンバーのリレー・コラムです。ぜひ、お楽しみください!(代表・横川理彦)
この夏は向日葵を植えた。
20粒余りのロシア産の種を買い求め、等間隔に土に埋めると、一週間もすれば一斉に発芽する。しかしここからが、彼らの個性が発揮されるところ。面白いほどに太く真っ直ぐ育つ芽もあれば、ひょろひょろと曲がる芽もある。種の個体差、プラス植えられた場所の環境。それによって彼らの運命は決まる。運命を受け入れて彼らはベストを尽くす。植物は動物と同じくらいアクティブにトライアンドエラーを繰り返している。
10輪ほどは、大輪の花をつけた。否が応にも道行く人の目をひく彼らの傍らで、小さく育ちの悪い花は控えめに咲いている。切り花にするとちょうどいい大きさなので、室内に連れて行く。全部が大輪だとこうはいかない。お前がいて良かったよ、と思う。
花の盛りは思った以上に短く、それでも種をつけるまで水やりを続ける。大寿を全うしてもまだ茎は頑丈で、これをどう処分するか考えていなかったことに気づく。取り敢えず地面から抜いてみると、予想以上に簡単に抜ける。こんな根っこで3メーター近くある本体が支えられていたんだと驚く。燃えるゴミに出すにも大きすぎるので枝バサミで半分に切っていると、お隣さんが通りがかって「楽しませてもらいました」と声をかけられた。良かった良かった。
ニュースでは、街路樹を勝手に切ったり除草剤で枯らした中古車屋が罰せられている。公共物破損の罪にあたるようだ。これがペットだったら虐待になるのか。いや人だったら殺人罪になるのか。植物が声を出して反応するなら、傷つけることはしづらい。目が合ったりするなら、こちらが考えていることを悟られないように目を逸らしたくなる。
そんなことを考えていたら、自然には守られるべき権利がある、と主張する活動家の海外ニュースが目に入った。人が自然を守るのではなく、守られるべき主体としての自然。まるで人権のように活動家が話している。そういう発想もあるのか。でも植物は強い。田舎暮らしだと、切っても切っても伸びてくる植物との鍔迫り合いが続く。油断すると、人間のエリアなんて簡単に奪われてしまう。
駅前の桜は、寿命に応じて若木に植え替えられている。明治神宮の樹木は100年後を想像して植えられた人工森林だという。今問題になっている神宮外苑再開発の計画だって、樹齢を考慮し、先を見越して立案されたものだろう。そうであってほしい。
骨董屋から聞いた忘れられない言葉がある。
「今、成功している骨董屋は、少なからず誰か1人は殺しているんです」
それは比喩かもしれない。どこかの骨董屋が没落することで、品物を安く仕入れることが出来て大成功した者もいるだろう。どこかの資産家が亡くなって、その忘れ形見を泣く泣く処分した未亡人を食い物にした骨董屋もいるだろう。比喩ではなくて、過去に強盗略奪をした輩もいないとは言えない。
自分だってそうだ。オーディションで1位になったということは、それ以外の人の夢を奪ってしまったのだろう。コンペで勝ち取った仕事は、誰かの仕事を奪っている。それは回り回って、誰かの人生を望まないものに変えてしまっているかもしれない。もちろん自分はこれまで、コンペに落ちまくってきたのだけど。
そんなことを考えながら、今日も植物に水を遣り、切ったり抜いたりしている。捨てる時に零れ落ちた向日葵の種からは、また芽が出てきた。
追記
植物は、人に聞こえない「声」を出しているという研究結果を原稿執筆後に知った。一定の周期で、時折「ポッ・・ ポッ・・ 」みたいに声を出しているという。さらに、傷つけられたりストレスをかけられると、その周期が早くなるらしい。そんなことを知ると、これから植物を切るのが怖くなる。知らなければよかった。