Toyroメンバーのリレー・コラムです。ぜひ、お楽しみください!(代表・横川理彦)
こんにちは( ◠‿◠ )
先週、ロト6とロト7を買ってみました。当選する気満々だったので、7千万円を上限にして中古住宅を探していました。ここ作業部屋にしようかな、この家は掃除が大変そう。車も買うかもしれないから駐車場がついてるほうがいいよね。10口買ったくじは全てハズレていました。二度と買いません。
さて本題ですが、自分が小さい頃から「オタク」という言葉は身近なものでした。小学生同士では「○○の物知り博士」みたいな言い方をしていたような。ひとつの事柄、ひとりの人間について、時間も忘れて調べたり、作品やコンテンツに没頭することって、とっても素敵です。
私は、小5の時にaikoにハマりました。好きになった時の最新アルバムから、デビューアルバムまでさかのぼって聴いてみたり、親のお金でファンクラブに入会させてもらったり。aiko本も読みました。中1の春に武道館ライブを観に行った時は、嬉しさのあまり号泣しました。
特にたくさん聴いたアルバムたちが、なんとLPになるとSNSで見て、迷わず予約しました。
中学高校で好きなアーティストの話をするときも、私はaikoが大好きだと誰にでも話していました。
しかし、それをやめるきっかけが大学時代に訪れます。
音大に進学すれば、そりゃあ中高(普通科)とはワケが違ってみんな音楽との向き合い方が真剣です。やりたい事を我慢して、毎日楽器の練習をしてきた人だっているし、音楽理論をとことん勉強してきた人もいる。「聴く」ということに関しても、あらゆる角度からいろんな背景を汲み取る訓練をしてきた人たちがいます。
その環境に入って、授業の合間にふと、とあるアーティストについてみんなが悪く言っている場に居合わせました。メジャーデビューもしていてメディア露出も多く、ヒット曲も1曲に限らない偉大なアーティストについて、「あんまり歌うまくないじゃん」、「どうしてあんなに売れてるんだろうね」などと話していました。
その空間にいたのは7人ぐらいでしょうか。私以外の全員が、そう話してガハハと笑っていました。
当時、私の中にしっかりと芯があれば、そんな場に居合わせたところで「まぁそう思う人もいるよな」と受け流せたのでしょう。しかし、周りからの自分の見え方ばかりを気にかけ、嫌われたくない気持ちだけで人間関係を構築しようとしていた浅はかな私は、「なるほど、あのアーティストを好きと公言すると、快く思わない人がいるのか」と思ってしまいました。ひどいのは、「あのアーティストを好きだと言ってしまうことで、自分の音楽家としての格も下がりかねない」とまで思ってしまったことです。
でも、こういう考え方している人、結構たくさんいるように感じたんです。たとえば世界中で崇拝されるアーティストの話題になったときに、「自分はこのアーティストの曲を良いと感じる知性、音楽性を持っている」といった、好きでいることに大きな理由を見出している人を見かけた時。すごいことなんですよ?だってそれだけ自分の魂を削って音楽と向き合ったことは事実なのですから。ただ、そこには「そのアーティストは、たくさんの人に良いと思われるだけの根拠があるから尊敬すべきであって、その根拠を持たない他アーティストのことは馬鹿にしても排除してもよい」(無下にしてよい根拠がある)という無言のメッセージも内包していないか?と思うんです。
私は、aikoのことは大好きです。ただ、私の「好き」に根拠ってあるのか?って考えたとき、うまく説明できないことにも気がつきました。別に、説明なんてできなくたっていいんです。好きならそれで。でも、当時の私は、「好きでいるための根拠がないならば好きと公言すべきでない」という結論を出してしまいました。
そこから、私は今に至るまで、自分の好きな物事についてあまり外で話していません。話すときは、本当に本当に慎重になります。「自分の格が下がる」という考えはくだらなさすぎるので捨てましたが、「私の”好き”には責任が伴っていないのではないか」とこわくなったり、「俺のほうが本気で○○が好きなのに、お前が浅はかな愛を吐露すべきでない」と誰かに思わせてしまったらどうしよう、と思うことはいまだにあります。
だから、自分の格上げのために利用していない、純粋に愛を公言できる人を見かけると、心の底から尊敬します。自分のいらぬ不安を拭い切るには、まだまだ時間がかかりそうです。