Toyroメンバーのリレー・コラムです。ぜひ、お楽しみください!(代表・横川理彦)
もう春はそこまで来ているというのに今頃年頭の誓いというのも間抜けな話でして。とはいえ今年こそはなんとしても第一歩を踏み出さなくては!という強い決意のもと、一つのプロジェクトを完遂させようと思っています。さてそりゃ一体全体なんぞや?と。
本題に入る前にまずは枕…という訳で、えー、先日『Get Back The Rooftop Concert』をIMAXで鑑賞、いや~素晴らしかったです。Disney+も加入してるんですがGet Back全編は今抱えてる仕事が終わってからじっくり堪能するべくまだ未見。とはいえIMAX上映は期間も限られてるから何を差し置いても見ておかなくては!と馳せ参じた次第。ビートルズのレコーディングセッションを日付順に全記録した名著『ザ・ビートルズ レコーディング・セッション(完全版)』を事前に副読本として読み返していたのでより深く楽しめました。『Get Back』とは直接関係ないんですが、読み返しながらそういえば大学の卒業旅行でアビーロードスタジオに行ったことを思い出しました。ブリティッシュロックの史跡巡りのつもりでロンドン~リバプール~ブライトンと回ったのですが、無知とは恐ろしいものでスタジオ玄関の守衛さんに「中を見学させて貰えませんか?」と頼んで当然の如く断られて「ですよね~」ってなったのもいい思い出です。今でもそういうアホな若者が物見遊山で守衛さんを悩ませ続けているんだろうな…と思い巡らしながらも、その「レコーディングスタジオへの憧憬」っていう気持ちはちょっと心当たりあるんですよね。
これまた大学時代の話、何者でもないアマチュアだった僕にとって毎日の通学で中央線から見えるCBSソニー信濃町スタジオはやはり憧れの聖地の一つでした。だって嫌でも電車の窓からがっつり見えるんですもん(現在は某宗教団体に売却、建物自体も解体されて跡形もなくなっています)。「いつかはあのスタジオでレコーディングできるような作家になりたい」みたいなことをぼんやりと考えていた訳ですが、そこから数年後、割とあっさりとその機会は巡ってきました。当時、リメンバー誌を愛読し筒美京平先生のパスティーシュとして作ったデモがモダンチョキチョキズの矢倉邦晃さんの耳にとまりシングル「渚のエンジェル」としてリリースされることになったのですが、その最初の打ち合わせとして呼び出されたのがCBSソニー信濃町スタジオ(以下信濃ソ)だったんです。毎日電車の中から拝んで見ていた憧れの建物の中に遂に!…という感動極まった瞬間でした。
というわけで今回の本題~モダンチョキチョキズの「渚のエンジェル」について。初めて音盤として形になった僕の記念すべき最初の仕事です。と同時に思うように作り込めなかった苦い思い出でもあります。この曲を作ったのは90年代初頭、デモテープがどういう経緯で矢倉さんに渡ったのか詳細は知らないのですが恐らく岸野雄一さん~安田謙一さん経由だったんだろうな、と(というかそのルートしかない筈なので)。信濃ソでは結局レコーディングの段取りなど打ち合わせだけで実際のオケ録りは四谷のSound Valley Studio(現在はA-tone Studio)、濱田マリさんのボーカル録りは音響ハウスでそれぞれ行われました。当時の僕はVシネの劇伴作曲家2~3年目といったところ。高円寺のレコ屋で店員のバイトをしながら音楽を作り、並行して土龍團として歌謡曲研究も進めていた時期だったので、音楽リサーチで得た人脈をフルに使ってベースを江藤勲さん、コーラスを伊集加代さんにお願いしました。なんてったって歌謡曲なんですから!。江藤さんはその当時インペグで連絡が取れない状況だったのですが、たしか黒沢進さん経由で江藤さん本人に自分で連絡を取りオファーしました。レコーディングに先立って江藤さんと渋谷の居酒屋で飲みながら全盛期のスタジオ話をあれこれ聞かせて頂いたのですが、貴重な証言が続々…といった感じで会話を録音してなかった事が本当に悔やまれます。この時伺ったお話の一部は『ソフトロックドライヴィン』のライナーノーツにも反映されているはず。
しかしながらレコーディングは順調という訳にはいかず、「渚のエンジェル」のベース録音は江藤さんが弾いてる部分と僕の打ち込みベースが実は混在しています。ざっくりとした大まかなラインだけ提示してあとはお任せでエレベーター奏法のようなベースに…というのが僕の編曲プランだったんですが、録音始まってみると江藤さんから「エレベーター奏法ってのは俺じゃないんだよ」とのこと。現在ではいわゆるエレベーター奏法の第一人者は寺川正興さんである、ということは公然の事実なのですがその当時はまだまだそこまで研究が進んでなかった故の大失敗でした。もし、もう一度レコーディングをやり直せるなら、今なら江藤さんの独特の音色、グルーヴ感を意識した全指定の書き譜でできるのにな…と悔やまれてなりません。そう、今なら。
さて、伊集加代さんとはこの時が最初のお仕事で、リメンバー愛読者の僕にとってはこれまた夢のような顔合わせでした。2コーラス目の「Hey!hey~」コーラスのディレクションで伊集さんに「この雰囲気は郷ひろみみたいな感じで!」って伝えたところ、僕の中では郷ひろみの筒美ワークスにおけるフィリーソウル的なコーラスのつもりで言ったのに伊集さん、いきなり郷ひろみの声真似で歌い始めて…まあ普通そう思いますよね。完全なディレクションミスでしたがスタジオ内は暖かい笑いに包まれました。
ちなみにこのモダチョキのレコーディングが僕にとっては初めてのプロとしてのスタジオレコーディングでした。先述の通りVシネマの音楽はすでに始まっていたんですが、低予算のVシネでは自宅完パケが基本で外部のスタジオを使う事は稀だったのです。この当時、すでにデジタルの時代には入っていたけれどPro ToolsどころかA-DATすらない時代、Studerの48トラックデジタルマルチとMacintosh Color Classic上のDAW=Performer(まだDigital Performerですらないのです)をRoland MC-500mkllを介してSMPTEでシンクさせる…という凄まじくややこしいことをやらねばならず、スタジオに機材一式運び込んで繋いでみたらシンクできない!…と青くなってメーカーに電話したことを覚えています。なにか一つでも設定をミスるとシンクしないからこのシンク問題ではしばらくかなり苦労した覚えがあります。もう今となってはよく覚えてないんだけど確かDAWからSMPTEを出せないからSBXのようなSync Boxを介さないといけないんだけど、SBXが当時は高価だったのでなにかややこしい手段で代用して、結果トラブル多かったんだと思います。
「渚のエンジェル」は僕自身の未熟さ故に結局何をどうしたいのか焦点が定まらなかったという印象が自分の中で燻った燃殻のようにずっと残ってしまった曲です。スタジオに於いて、プロデューサーである矢倉さんが主導権を握っていた中でどこまで自分の主張を通せるかの駆け引きが本当に出来ていなかったと感じています。また筒美京平パスティーシュとしても、京平先生のように分母を意識しながらも歌謡曲として完璧に再構築し得たか?と問われるとやはり当時の自分のアレンジャーとしての力量にはダメだしせざるを得ない、分母に当たる部分が血肉化されていない、いつかやり直したい、やり直すぞ…そうずっと触れ回って色々な人を待たせ続けてしまってました。
本当に待っていてくれた人たちはもうこの世にいなくなってしまったけれど、だからこそもう待たせてはいけないんだ!と。牛歩でもいいから毎年何かしらかたちにしていきたい、こうして文章として残す事で退路を断って粛々と形にしていこう…今はそういった心境なのです。というわけでなんだか思わせぶりになってしまいましたが完成した暁にはこれの続きを書きたいと思っています。