Toyroメンバーのリレー・コラムです。ぜひ、お楽しみください!(代表・横川理彦)
ミラノから帰国して2ヶ月が過ぎた。こんなに長く東京にいるのは、1995年以来だと思う。
1995年。阪神大震災があり、地下鉄サリン事件があった年。windows 95が発売されたが、まだe-mailもインターネットも携帯電話も普及していなかった時代。この頃の音楽制作環境は、PCはAtari STからようやくMACに移行し、ソフトはCubase、EnsoniqのサンプラーASR10Rをメインに、全てのmidi楽器を同期して、ミキサーに立ち上げ DATで一発録りという、特にテクノ系の人はみんなそんな感じだったと思う。当時、diet musicというユニットをやっていて、このコンピレーションに収録されることになり、駒沢のスタジオに使用機材をすべて持ち込み、SSL卓で贅沢に録音させてもらったのだが、生楽器や声は使っていないので、宅録でも全然いいじゃん、とも思った。そうやって宅録した音源のリイシューの話を2013年にいただき、オリジナルの宅録版がこちら。これももう8年前で、メンバーの一人は昨年他界してしまった。
四半世紀ぶりに長期滞在している東京だが、懐かしさはあまり感じない。それはなぜなのかを漠然と考えている。ひとつは実家の引っ越しで元々住んでいた家は無くなったのと、そもそも生まれ育ったのが小平市の住宅地、親の世代が地方から移り住んできた第一世代で、親の代から小平が地元だという同級生はごく一部だった。今ではこの第二世代の同級生たちが結婚し、地元に住み、第三世代が生まれ、町の歴史が刻まれ始めている。しかし、昔通った店や、映画館など、もう殆ど残っていない。そんな中、学生の時に2年間アルバイトをしていた国分寺の喫茶店 ジョルジュ サンク が、今でも同じ店長さんで営業を続けている。開業37年。当時と値段も一緒で、今どき珍しく煙草も吸える。一見さんが扉を開けるなり、黙って扉を締めて入店拒否という風景を何度か目撃したが、喫煙者のオアシスとして繁盛している。
国分寺って普通東京で生活している人はまず用事がないから来ないよね。吉祥寺から西へは行ったことがないというような話はよく聞く。そういう場所は沢山あって、僕自身、都内は知らない所だらけ。ピンポイントでどこかには行くけれどその周辺は何も知らない。23区内でも足を踏み入れたことがない区はあるし、降りたことのない駅なんて数え切れないほどあるだろう。
今回の滞在の半分を目黒区で過ごしている。東横線沿線はほとんど馴染みがないが、住んだことのない場所に居るのは面白く、日々知らない道を歩いてみる。目黒不動尊を筆頭に、数多くの神社仏閣が点在し、小さな稲荷や祠、地蔵などがそこら中にある。知らない街なのに、むしろ強い郷愁感を覚える。歴史と街のつながりを彷彿させるからだろう。とにかく東京は広い。ミラノを東京の上にのせてみたら、山手線の四分の一くらいの大きさだと思う。そして東京は工事が多い。大小のビルの建て替え、新店舗、新規の道路等、帰国するたびに全く違う表層の街になっている。2015年のMilano Expo前後に、ミラノでも大規模な都市開発があったが、東京のそれとは較べ物にならない。中心地ではリノベーションはあっても、建物がそっくり建て替えられることは少ない。ここで、ミラノの1925年の地図(1万分の1)を見てみる。100年近く前の地図だが、今でもこの地図で十分ミラノ市内は歩ける。道の名前は同じだし、中身は違っても、大半の建物は現存している。唯一変わったのは、街中を流れていた運河が埋め立てられてしまったことである。現在、この運河を復活させようという声が広がっている。是非、実現してほしい。ミラノには一戸建ての住宅は非常に少ないので、狭い路地に様々なスタイルの住宅が立ち並ぶ東京の住宅地の風景は特異な感じがする。混沌と秩序が綯い交ぜの街が東京の最大の魅力なのだろう。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットにハングル文字が入り混じった看板、訳のわからない名前の集合住宅や店名、複雑に張り巡らされた電線。なんで、こんなにドラッグストアが多いのか、と思いを馳せているうちに漠然と考えていた謎が解けた。
そうか、僕はもう外人なんだと。懐かしさではなく、余所者の目線になっている。実際、イタリアでの生活のほうが、日本より長くなったので当たり前なのか。とは言っても、イタリア人化したという訳ではない。イタリアの慣習には全く慣れないところもあるし、かと言って、日本での習慣のまま生きている訳でもない。結局自分のアイデンティティはどこに居ても外人ということなのだろう。