Toyroメンバーのリレー・コラムです。ぜひ、お楽しみください!(代表・横川理彦)
異業種のクリエーター同志で話をする機会が多い。むしろ同業者である音楽関係の友人の方が少ないかもしれない。それはミラノという場所柄もあるのかもしれないが、プロダクトデザイナーや、建築家、ファッションデザイナーが周りに多い。お互いの仕事上で譲れない部分とか、拘りについての話は聞いていて面白い。そして、ものづくりをする上で、共通のジレンマがある。それは、新しく何か作る必要があるのか?いや、むしろ新しいものなど何もなくて、全ては何かの焼き直し、リミックス、アレンジ。それでも作っていかなければいけない。何を持って新しいということなのか。全て過去にもうあるじゃん。引用と解釈。その繰り返しで世の中は進んでいる。
では、何をすべきか?最低限、引用するもののルーツは知っておく、それを解釈し、系統立てて考えることは有効だと思う。引用、流用、それを意図的にやり始めた例として、マルセル・デュシャンの仕事が挙げられる。小便器を横置きにした彫刻、"泉" や、絵葉書のモナリザにヒゲを書き入れた、"L.H.O.O.Q." といったレディメイド作品。もう100年以上前のものだ。プロダクトの世界では50年代以降、イタリア人デザイナーのアキッレ&ピエール・ジャコモ・カスティリオーニ兄弟によるレディメイドシリーズの "Mezzadro" , "sella" , "Toio" など、他の製品で使われている既成のパーツを流用することで、コストを下げ、尚且つ、全く違う機能と美しさを兼ね備えている。流用して違うものをつくる、ん?それって、hip hopじゃね?とすでに思った方も居るだろう。他人の曲をサンプリングして、全く違う曲を作る。CHICの good Times やThe Winstonsの Amen Brother のドラムソロは、もはや原曲よりもサンプリングされた楽曲の方が馴染みがあるかもしれない。Mixmagがこの通称Amen Breakについて短い ドキュメンタリーフィルム を作っているので是非観てほしい。音そのものを流用するだけではなく、もっと昔から、他人の曲のリフや、メロディを引用した例は枚挙にいとまがない。
92年に起きたイタリアでは有名な事件で、歌手のアルバーノが、あのマイケル・ジャクソンを相手に、盗作訴訟を起こした。そのオリジナルが Cigni di Balaka という87年の曲。で、訴えられたマイケルの曲は91年発売のアルバム、デンジャラスに収録された、Will You Be There。確かに!メロ一緒じゃん!この裁判は何年も続き、94年にはアルバム、デンジャラスがイタリア国内で販売差し押さえになるまでの出来事に発展したが、その後状況は急展開を迎えた。実は39年に発表されたInc Spotsの Bless You (For Being An Angel) という曲に、両曲とも極似していると。この曲はネイティヴ・アメリカンのフォークソングを元に作られたとうことで著作権はなく、新たな訴訟問題には発展しなかったとさ、めでたしめでたしっ、てことで、現在は両者ともそれぞれオリジナルソングですって事に落ち着いているようだ。それも変な話だが。
盗作まで話が発展したが、そもそも、多くのものづくりの上で基本的なフォーマットは出来上がっている。音楽の場合は、リズム、メロディ、ハーモニーを使ったものが大半を占めており、それぞれの音色と、和声、リズムパターンとテンポで大体のジャンル感が決定する。例えば60年代ビートルズ風であったら、そこで使う楽器編成、音色、リフ、ベースライン、ドラムのフィル等、作る前から決まっていると言っても過言ではないだろう。そのようなフォーマットを廃した現代音楽、実験音楽にも、また別のフォーマットがある。自分が考えついたことは、必ず先人がやっている。人の褌で相撲を取っているだけなのに、褌の柄とか形とか素材を変えることであたかもオリジナルだと勘違いしている。
無自覚に過去の手法を利用して作られた、もしくは無自覚にフォーマットを綯い交ぜにした楽曲の如何に多いことか。
いや、むしろ本当に無自覚で出来るならばきっと面白いのかもしれない。ここは”無自覚”ではなく、”漠然”と使うべきか。
重要なのは、既存の手法を取り入れながらも、それの持つ意味や背景を考え、模倣ではなく、自分の言葉として消化していくか。ただ〇〇風を作っても仕方がない。とか偉そうに言ってると、どんどん自分の首を絞める結果に、、、。
おまけ
確信犯的に既存のフォーマットのみを利用したNahre Solさんの演奏。本物が存在しないモノマネ。 お見事。