Toyroメンバーのリレー・コラムです。ぜひ、お楽しみください!(代表・横川理彦)
何年か前、苺(いちご)を食べていてふと気付いた。なんて美味しい食べ物なんだ!と。
特別変わった苺ではない。それまでも食べていたはずの、スーパーでパック売りされている日本の苺。
むしろ当たり前過ぎて気づかなかったのかも。こんなに美味しいものが、身の回りにあるということに。
最近気づいたこと。ここにいない人のことを思い出す時、自分はその人の声を思い浮かべている。
もうしばらく会ってない人。どうしてるかなと思う時、その人が自分に語りかけてくる声を頭の中で鳴らしている。
そして訃報を聞いた友人のこと。もう会えない人になってしまったけれど、やっぱり頭の中で語りかけてくる。
それは例えば学校のプールサイド。高くてハスキーな声で「やっべぇ」と笑った同級生。
「そぅかぁ、どうしようもないかぁ」と困り顔をしていた友人。
酒を片手に「ありがとうなぁ」と目を合わせた親戚。
髪型や服装が変わっても、声は変わらない。顔だって体型だって、少しずつ変わっていく。
でも声は変わらない。いや厳密には変わっているのだろうが、むしろ歳を重ねるごとに特徴が際立っていく。
柔らかい声はより柔らかく。鼻にかかった声はより鼻にかかった声に。
だから記憶の中では、その存在感は増す一方だ。その声こそが、自分にとってはその人そのものだ。
困るのは、何十年ぶりかに小学生の時の友人と会う時。
身長が伸びても、目元や仕草に、当時の面影を認めることは出来る。
しかし、会ってない間に喉仏は出っ張り、すっかり声変わりをしてしまっている。女性でも声は変わる。
目の前にいる同姓同名を名乗るこの人は、本当にあの時のあいつなのか?と不安になる。
そして、昔はこういう声だったよな、と頭の中で鳴らしてしまう。
目の前の相手がしゃべるたびに、頭の中で小学生の頃の声に変換してしまう。
ちょっと似ているのは、音楽でいう「移調」という作業。
例えばハ長調の曲(キー=C)をヘ長調(キー=F)に変えて演奏する時、移調という作業をする必要がある。
ドをファに、ミをラに、というふうに移動していくのだ。
自分の場合、相対音感ではないので、いちいち頭の中で変換しなければならない。
昔覚えた曲は、もともとのキーでなければ、その曲の雰囲気を思い出せない。
移調してしまえば、もう違う曲にしか聴こえない。
友人との淡い記憶も、小学生の時の声じゃないと懐かしく振り返ることが出来ない。
それは仕方のないことなのだろうか。自分だけなのだろうか。
追記
もし近い将来、苺の味が変わってしまったらどうしよう。
今僕らが食べているような味の苺は、もう作れませんというディストピア。
自分は、苺の味を回想出来るだろうか。甘味、酸味、香り、食感。
聴覚には自信があるが、味覚にはどうも自信がない。